言語文化学コース Linguistics and Literature
杉山 欣也 (SUGIYAMA Kinya) 教授
[研究領域] | 日本近代文学 |
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【「日本近代文学」の境界】
人文学類で日本近代文学を担当しております、杉山欣也と申します。1992年に本学を卒業し、2009年に赴任しました。三島由紀夫の作品や、文学とメディアの関係を専門としています。
ところで私、「日本近代文学」というものがよくわからなくて困っています(笑)。「日本近代文学」という言葉は「日本」「近代」「文学」に分かれますが、これらの指し示す領域の境界線が曖昧であるように思えてならないのです。たとえば「日本」の「文学」において「近代」の起源は明治維新なのか、その終焉はいつなのかといったことが私にはよくわかりません。明治前期の文学は江戸後期の文学とくっつけて「19世紀文学」ととらえてもいいような気がします。そして「近代文学」の終焉は「現代文学」のはじまりということになりますが、「現代文学」が「近代文学」の一部なのか、対立物なのかといったこともよくわかりません。
次に「文学」ですが、これは何と境界を接しているのかがわかりません。金沢大学では「文学」の同居人は「語学」で、「歴史」や「心理」などが隣人ということになっていますが、J-popや映画のシナリオが「文学」だとするならば、同居人は「音楽」や「映像」ということになります。SFは「文学」と「科学」が同居しています。「文学」と「文学」でないもの、「純文学」と「大衆文学」の境界だってかなり曖昧です。
最後に「日本」について考えてみます。地図帳を開けば「日本」の境界線はしっかりと引かれています。でも実際には「日本近代」の境界線は時代によって膨張・縮小しています。そういう境界領域で生まれた文学は「日本近代文学」なのでしょうか。たとえば張赫宙という作家は日本統治下の朝鮮半島で日本語を習得し、日本語で文学作品を発表しました。戦後には日本国籍を取得し、野口赫宙という名前で創作活動を行いました。また、リービ英雄という作家はユダヤ系アメリカ人とポーランド系移民の間にアメリカで生まれ、日本語で小説を執筆しています。彼らの作品は「日本近代文学」でしょうか。作者の国籍はともあれ日本語で書かれている以上は「日本語文学」である、という考え方も成り立ちます。しかし、「白樺」の同人・郡虎彦はイギリスに渡り、英語で戯曲や評論を書き、彼の地で注目を集めます。彼は日本の雑誌に作品を発表するときもまず英語で執筆し、自ら日本語に翻訳しました。これらの作品はすくなくとも「日本語文学」ではないわけです。
こんな風に「日本近代文学」という言葉の指し示す領域の境界線は相当に曖昧で、なんでもありの闇鍋仕立てという気もします。得体が知れなくても美味しいので毎日食べているわけですが、自分の口にするものがなんなのかくらいは知っておきたいのでいろいろと考えをめぐらせているわけです。